監督:インディア・ドナルドソン
出演:リリー・コリアス
先日シアターで流れた本作の予告編で、全然英語が聞き取れなかったので、open caption版の回を選んで見た(The Little Theaterではほぼ大体の上映作品で、週2回ほどopen caption上映がある。『フェラーリ』もこれなしではほぼわからなかったw)
予告編では、楽しいハイキングが途中から不穏な空気になっていき、というような感じの紹介になっていて、確かにそうだが、ぶっちゃけ最初から不穏である。
大学入学を控えたサミー(リリー・コリアス)が、離婚した父と、もう一人、ディランという男の子(関係性は明かされない)と、これまた離婚した彼の父と一緒にハイキングに出かける予定だったのが、直前にディランがごねて、ディランの父(マット)だけを連れた3人で行くことになる。サミーの父とマット、二人の中年男性がやや異なるタイプではあるが、二人のマイクロアグレッションを観客はひたすら目撃させられることになる。ゆったりとしたリズムのなか、あまり大きな展開も起きず、マイクロアグレッションが淡々と蓄積されていくという点では、エリザ・ヒットマンの『16歳の瞳に映る世界』などにも通じる志の映画だろう。
もう少し画面にインパクトがあると良いんだけどなぁと思いながら見ていたが、あくまで地味さを貫く方針かもしれない。
たまたま遭遇した若者3人組との会話シーンでは、サミーの視線と男性陣の視線が、交わってるのかいないのか、要するに人物達がどこを見てるのかよくわからないように撮られているのが面白い。このシーンも含めて、切り返しがほぼ内側で、主要キャラクターの3人が同一画面に入ることの方が珍しいのだが、唯一、サミーとマットの夜の会話のシーンだけが外側の切り返しで撮られており、ここでマットがとんでもない下衆発言をすることになる。(それにしても、俺は生まれ変わったら哲学者になっていたと思う、という自意識と、現実のうだつの上がらぬ人生のルサンチマンを10代女性にぶつけてしまう男の惨めさったらない。)
前述の下衆発言のあとのシーンで、サミーが下着姿で川に入るシーンがあり、陽光の差し込みも含めて、ここは意図的にセクシャリティを漂わせるショットになっているのだが、縦構図の奥から父が娘に向ける視線、画面外に想像されるマットの視線(実際は寝てるのだがw)が交錯し、観客はこの画面をどう見るべきか悩むことになるだろう。
地味だなぁ、もうちょい、うーん、みたいな気持ちと(冒頭で、マットの荷物が玄関口の階段を転げ落ちるような、ああいう遊び心がもっとあってもいい)、上述のような実に計算された演出への感嘆で揺れるが、新作を見てみたい監督かもしれない。ただ、アメリカ・インディ系の、空ショットと会話ショットだけで成立させる、この地味すぎる感じ(ケリー・ライカート的な?)にはそろそろ既視感が強まってきたような。
★★★★★★★☆☆☆