監督:ミシェル・フランコ
出演:ジェシカ・チャスティン、ピーター・サースガード
ラストショットが素晴らしいと思う。決して明るい部屋ではないものの、窓から差し込む陽光により、抱擁する二人の影が壁にばっちり映っている。影が二人の動きに合わせて動くという当たり前の事態に、何かしらの意味を見出したくなるような、しかしはっきりとはわからない、言ってみればただただ美しいそのイメージに、良いラストじゃないかと思う。映画とはこのように、あくまで無責任に、何かしらのヴィジョンを指し示して、そっと終われば良いのだ。
ミシェル・フランコといえば、『ある終焉』の尾行シーンにみられるように、動機や目的のわからぬ行動により観る者を不安の極地に陥れる監督であり、そういう意味で若年性の認知症を患った男性を題材とするのは一貫性があると言えるだろう。演出のギミックではなく、物語の設定からして、彼の「目的」や「動機」は問題にされないからだ。しかしそれでもこの映画にあっては、特に終盤にかけて、彼には一定の意志があるように見受けられる。特にチャスティンの職場に彼が尋ねてくる場面は、逆に彼の認知症という設定がほとんど忘れ去られたかのようでもある。そこにリアリティの欠如を指摘することも可能かもしれないが、しかしこうした部分も含めて彼の行動の予測不可能性が、そのまま映画の予測不可能性につながっている。それは決して、この先どうなるんだろうという類のものではなく、あらゆる可能性に開かれている、その開放性だ。こうした開放性は、もちろん設定だけでなく、彼の作品が常にそうであるように、各シークエンスが途中から始まり途中で終わる断片性の為せる効果でもある。
ところで、この映画には、たった一個だけ切り返しがある。サースガードの面倒見を頼まれたチャスティンが、初めて彼の部屋に来たシーンにおいて、彼女がソファに座り、彼と正面で向き合う。ここまでは一貫したフルショットで撮られるのだが、チャスティンがサースガードに謝罪した直後、チャスティンが手前、サースガードが奥に配された切り返しがある。ミシェル・フランコの映画で切り返しを見たこと自体が初めてのような気がするのだが、ほぼ一貫してフルショットによる「醒めた」描写をするなかで、このショットが格別な印象をもたらす。というのも、フルショットや遠景のショットは、状況を外から見たものであり、人物同士の距離がすべて物理的なそれに置き換わる。アクション映画であれば、その物理的距離自体がひとつのスリルになるわけだが、こうしたドラマ映画においては、物理的距離と心理的距離にはズレがある。だから映画においては、人物の見た目ショット/視線ショットなどにより、その人物の関心=心理的距離を示すというような技法が使われやすい。いま言及した切り返しは、視線ショットではなく、特定の人物の心理的距離を表すものではない。しかしながら、フルショットの客観性がここでは捨てられ、向かい合う二人を、二人の傍らで見るようなショットが提示され、空間的な色合いが明らかに変化するのだ。ミシェル・フランコはたった一回、このシーンでのみその方法を用いている。逆にあとのシーンはすべて客観的なフルショットに終始しており、人物間の心理的距離が全くわからないようになっている(特に終盤、家族一同が対峙する修羅場の場面に典型的だ)。
NYCの小さな映画館でかかっていたようだったが、ロチェスター市には一切来ないまま配信スルーとなってしまったが、これは映画館でたっぷり味わいたい作品ではないだろうか。ジェシカ・チャスティンをもってしても日本公開は難しいだろうか。
★★★★★★★★☆☆