監督:アラン・レネ
高校生のときに(TSUTAYA渋谷店で文字通り)背伸びして見て以来だから、十数年ぶりの鑑賞ということになる。高名な冒頭の「お前は何も見ていない」の繰り返しだけは確かに覚えていたが、そのほかについてはほとんど何も覚えておらず、こんな映画だったのかと。
今このタイミングで見ると、ガザやスーダンのことを思わずにはいられないし、これが戦後13-4年後に撮られたという意味では、東北大震災からの月日とも重ねてみたくなる。
映画について、何から書こうかと悩むが、とにかく今回見て驚いたのは、エマニュエル・リヴァと岡田英次を切り返しでつなぐ際に、本当に一回も同じショットというのが出てこないということだ。たとえば、1(リヴァ) → 2(岡田) →3(リヴァ) → 4(岡田)と順番に映すにしても、1と3、2と4が必ず微妙に違うアングルで撮られている。もちろん3がそもそもそのまま人物が移動してフォローするーしていくショットだったりすることが多いのだが、しかし喫茶どーむにおいて、二人が座って会話をするシークエンスにおいても事は同様で、エマニュエル・リヴァのクローズアップが、カットを割るごとにちょっとずつ前から横へ円弧を描くようにカメラの位置が変わっていくのである。あるいはエマニュエル・リヴァが深夜にホテルに帰って、顔を洗って鏡に映った自分を見つめるシーン(なぜかここは覚えていた!)でも、鏡に映ったリヴァの顔は少しずつ違うアングルで映される。
それがどうだっていうのか。リヴァが演じる女性が「すでにあなたを忘れ始めている!」と嘆くように、決して一つに定まらぬ曖昧な記憶の多義性というやつを表象しているのか、あるいは水爆、原爆へのデモ抗議を映しておきながら、いやこれは映画の撮影なんですよとわざわざフィクション性を強調することと関係するのか、よくわからない。
ところで、男と女が繰り広げる「二十四時間の情事」は、原爆の記録映像なども含めた”社会派映画”としては、実に厳粛さを欠いた「愚行録」に見えるが、しかし、ラストに二人がお互いの名前(ヒロシマ、ヌヴェール)を呼び合うように、これは一種の神話として撮られているのだろう。お互いの境遇が戦争を通じて、しかもある種のタブー(原爆、ドイツ兵)を共有するかたちで交錯する物語には、何とも言えぬ美しさがあるのではないか。
空ショットの連鎖による「関係づけ」は、今となってはやりすぎで古めかしいが、しかし上述したカッティングも含めて、見どころたくさん。戦後の日本の建築の美しさにも惚れ惚れする。