お目が高いって言われたい!〜アメリカ在住MD PhDの映画日記〜

映画を見る合間に膠原病の研究をしています

時々、私は考える。 Sometimes I Think About Dying @The Little Theater

サンダンス映画祭で評判だった(?)アメリカのインディペンデント映画。

オレゴンの港町で、日本で言えばいわゆる「陰キャ」な女性が、新しくオフィスに来たおっちゃんと恋仲(?)になる話。タイトルは、ときどき自分が死ぬイメージを夢想してしまう主人公の習性からきている。

昨年のDream Scenarioでも思ったが、アメリカのインディ映画は、やたらと「シュールな夢想」を映像化したがる。Dream Scenarioは、人々が見る夢にニコラス・ケイジがシュールなかたちで登場するものだが、今回は主人公の夢想を映像として見せる。蛇が出てきたり、(クレーン車の動きにあわせて)自分が浮き上がるようなイメージが出てくる。ちょっとピントがずれるかもしれないが、『エブリシング・エブリウェア〜』のような、なんでもありのイメージ合戦はその極致といえるかもしれない。「ちっとも面白くない現実」「慎ましく淡々とした日常」に対置される「シュールで怖いイメージ」という構図なわけだが、私が映画で見たいのは「日常の変容」であって、日常の超越ではない。いや、もちろん、そりゃシュールなイメージが現実に侵食することで現実が変容するんだと言われればそうかもしれないが、それなんか面白いのか?というのが正直なところだ。

と、色々言ったものの、この映画は実はそれほど、シュールなイメージが日常を侵食するわけではない。むしろ、一連のイメージ映像がなくとも、最近で言えば『枯れ葉』、あるいは『心と体と』のような、「奥手な男女の不器用な恋愛映画」として、まったくふつうに成立するだろうと思われた。こうなってくると、このシュールな夢想の設定は果たして必要だったのかと疑問になってくる。実際要らない。要らないのだが、ちょっと唸らされたのが、相手のおっちゃんは映画マニアで、映画館デートをしたり家で映画を見るのだが、劇中では一切映画の映像を見せない。こんな「映画内映画デート」の描写は初めてだ。どんな映画であれ、劇中で映画が出てくるときは、作り手の映画愛が溢れるごとく、映画内の映画が提示されるものだ。しかしこの作品では、ストイックなまでに映画の内容を見せないのだ。あえて解釈すれば、映画=イメージを一緒に見る喜びよりも、自分しか見れないイメージにとりつかれる主人公の悲しい性を強調しているのかもしれない。しかし、そうなるとやっぱり、この夢想イメージの中途半端なキャッチーさが、その徹底したストイックさと、反スペクタクルな魅力に水を差している気がしてしまう。

「奥手な男女の不器用な恋愛映画」として、特段上述の先行作品に匹敵するような部分はないし(『心と体と』の達成は今後もそうそう超えられないだろう)、撮影も美しいとはいえ、基本的には静止画的な美しさであって、映画的なそれではない。しかし、片田舎の小さなオフィスの微妙な空気感の描写はよく出来ていて、なんならうちのラボもこんなもんだと思わなくもなく、普通に楽しめた。撮影でいえば、退職した初老女性が終盤に再登場する場面の切り返しはまったくダメ。遠景で美しい映像が撮れても、こういうところが適当だと意味がない。

ただ、日本だとこれぐらいでは陰キャとは言えないかもしれない、とか思ってなんか悲しくなった。しかしホームパーティでみんなが興じるゲーム、あのノリにはまったくついていけない(笑)