アメリカ在住MD PhDの映画日記

映画を見る合間に膠原病の研究をしています

ポトフ 美食家と料理人 (The Taste of Things)@ The Little Theater

監督:トラン・アン・ユン

ブノワ・マジメル

ジュリエット・ビノシュ

 

ブノワ・マジメルというと、クロード・シャブロルの晩年の作品によく出てきて、すげぇ胡散臭いけど憎めない奴をやらせたらピカイチだなという印象を持っていた。しかしあまり見かけないうちに、ずいぶんふっくらとされて、だいぶ年取ったなぁと思った。

一方のジュリエット・ビノシュは、この10年ぐらいまったく年をとっていないのではないかと思ってしまうほど、ほとんど印象が変わらない。相変わらず素敵だが、善良さが出過ぎているのではないかだろうか。

映画であるが、すっげぇつまらなかった。口数の少ない、善良な人たちの呑気な言動を延々と見せられて、出来の悪い日本のドラマみたいな間の悪さである。時に美しいショットはあるが(明け方から朝への光の変化、ジュリエット・ビノシュの裸身、マジメルが風呂で料理の香りに惹きつけられるショット)、カメラの動きは場当たり的でフィロソフィーがない(冒頭の料理のシーンは見事な捌き方である。この調子で行ってくれれば。。)
そして使用人のヴィオレットの扱いはあまりに不憫だ(ジュリエット・ビノシュがマジメルの料理を一人食べているシーンで、一度だけヴィオレットのバストショットがインサートされるが、このショットはなかなか良い)。
冒頭の料理シーンが結構良いなと思ったのは、料理を一つの共同作業として描いているからだ。皿が人から人へと渡され、その間を人が通り、という動きをかなりうまく描いている。しかしそれ以降は、ブノワ・マジメルのよくわからない熱意というかこだわりというか、そういう個人的な資質がただあられもなく提示されるだけで、多面的な意味空間が創出されない。
さっきから言い訳がましく書いているように、良いシーンも結構あるのはあるのだが、何というかあのオッサン4人衆の食事会が始まったあたりから根本的な興味を失ってしまったというのが正直なところ。

それにしても、カンヌでグランプリ、批評家大絶賛...

(『パスト・ライブス』でも思ったが、単に間が悪いだけの「余白」とか「沈黙」に寛大過ぎないか。)

上映前、アリーチェ・ロルヴァルケルの新作の予告が流れた。待ち遠しい。

 

★★★☆☆☆☆☆☆☆

 

アンセルム Anselm @ The Little Theater

製作2023

監督:ヴィム・ヴェンダース

 

もうすぐアメリカでもPerfect Daysが公開になるヴェンダースだが、Perfect Daysをコンペティション部門に出品した同年に、このドキュメンタリー映画も出品していたようだ。

ヴェンダースはその長いキャリアのなかでもたびたびドキュメンタリーを撮っている人で、東京で小津安二郎の墓を訪ねたり、笠智衆にインタビューしたりする『東京画』とか、最近だとピナ・バウシュ劇団のパフォーマンスを3Dで撮った『ピナ』とか。

今回は戦後の現代アートの重要な人物であり、ヴェンダースとも長年の友人関係だというアンセルム・キーファーについてのドキュメンタリーだ。この人については何も知らなかったが、1945年に生まれたいわゆる戦後世代に属する人で、工場を買い取ってそこで巨大なアートを製作し続け、さらに広大な土地に巨大オブジェを建てたりしているらしい。映画から読み取れるのは、一貫して戦争、ナチスホロコーストに拘ってきており、黒、灰色を基調とする極めて陰惨なイメージをとんでもないスケールで提示する作風に驚かされる。製作工程を映したショットも結構出てくるが、藁のようなものが大きなキャンバスに貼り付けられていて、それを火炎放射器で燃やしながら、どんどん灰〜黒色を拡大させていく過程がめちゃめちゃスペクタキュラーだ。こうした物理的に圧倒してくるアートとは別に、70年代に彼がヨーロッパの各地でナチスの敬礼をするというパフォーマンスで物議を醸した事例も取り上げられる。当時のインタビューで、「ナチスの話に人々は蓋をしてしまって、それと対峙しなくなってしまった。教育現場でもちょっとしか触れない」という発言をしていたのがちょっと意外だった。戦争責任の総括という点で、何かと日本の不徹底性に対してドイツの徹底性が取り上げられるように思うのだが、しかし彼の目からすると非常に不十分に映ったということだろうか。

パウル・ツェラーのテキスト、そしてハイデガーの問題などの哲学・文学的な問題も題材とされつつ、彼の作品をベースにヴェンダース自身が豊かな空間表現を試みるカメラワークが大きな見どころだろう。彼の作品群が並ぶ大きな工場を自転車でめぐるショットが良い。

夕暮れ、朝焼けの美しい光と、それが照らすアンセルムの謎めいたオブジェ、そこにかぶさる深遠なオペラ歌曲・・・。こういうのはコンディション次第では全くついていけないこともあるが(アート鑑賞なんてそんなもん)、今回はかなり乗れた。

 

上映のあとは、ロチェスター周辺の美術史家、アーティスト、キュレーターがパネリストとなってのトークセッションがあったが、開口一番にパネリストの一人が「いや実はキーファーはあまり好きではないというか。過去への執着が強くてバリエーションがなく、ロマン主義色が強すぎてちょっと怖いよね。」と言い始め、なぜかキーファーの限界ばかりが語られることになる異様なトークだったが、終盤に客席からは反撃もあり(実際に彼の作品群を鑑賞したという年老いた女性がいらした。なんと見識のある!)、ちょっと面白かった。終映後に、「まさかいきなり批判し始めるとはね」と苦笑いを浮かべるご婦人たちも。 パネリストの言いたいこともわからんではなく、しかしこの狂気的なまでに同じモチーフで突き進む芸術家の抗い難い魅力というのはやっぱりある。香月泰男のシベリアシリーズなどにも通じるところがあるように思う。

映画自体がとっても面白く、スリリングであることが何よりの収穫だった。

【追記】京都でキーファーの展覧会をやることが決定したとのこと。

 

一番右が司会。ロチェスターの美術館の関係者と言っていたと思うが、すごく手慣れた司会ぶり。こういうところはさすがで、イベントがちゃんと盛り上がる。



 

 

 

 

 

アフリカの女王 The African Queen @ Dryden Theater

1951年

監督:ジョン・ヒューストン

キャサリン・ヘップバーンハンフリー・ボガート

ヘップバーンとボギーの共演ということで、当時も大ヒットしたというが、Dryden Theaterもいつになく混んでいてびっくりした。愛されてるな。

アフリカにあるドイツの植民地で宣教師をしているイギリス人兄妹の妹がヘップバーンで、船で彼らに手紙を渡しにくる粗野なカナダ人がボギー。第一次対戦の勃発を機にドイツが現地住民への迫害を強める。兄を失ったヘップバーンが、ボギーと一緒に蒸気船(アフリカの女王)に乗って、ドイツの戦艦を追いかけにいく冒険ストーリーが続く。

何度か激流の中を突っ込む場面があって、ヘップバーンが怯えるどころか興奮するのがフックになっている。ちなみに激流の場面は、ロングショットで船が激流に飲まれるのを見せつつ、スクリーンプロセスで近景処理をしているのだが、これが全然安っぽく見えない。CGがなくても、これだけで観る者は楽しめるのだが、しかしこれはヘップバーンのキャラクタリゼーションだったり、あるいは激流に遭遇する直前の間合い(弛緩させておいて、激流に遭遇したボギーのリアクションショットでエンジンをかけるという王道の)によるところが大きい。

あとは、蒸気船の狭い空間でのシーンが大半を占めるなかで、いかに画面を活気づけるか、という点においても、さまざまな工夫がなされていると思う。切り返しのショットの多くが内側から切り返されている(後頭部を手前になめる外側ではなく)のだが、ボギー、ヘップバーンそれぞれのクローズ・アップ、バストショットがそれぞれとても綺麗に撮られている。狭い船での撮影だから、実は一個一個カットを割って会話をつなぐというのは難しいのではないかと思うが。ヘップバーンがときおり傘をさす(雨傘としても日傘としても使う)が、この黒い傘がなかなか存在感があって、よく撮れている。

あまりセリフが聞き取れなかったのと、魚雷"topedo"という単語を知らなかったので、二人が何を企んでるのかわからないまま見ていた。

撮影はジャック・カーディフ。見事なカラー撮影。

 

 

 

 

 

 

Sometimes I Think About Dying @The Little Theater

サンダンス映画祭で評判だった(?)アメリカのインディペンデント映画。

オレゴンの港町で、日本で言えばいわゆる「陰キャ」な女性が、新しくオフィスに来たおっちゃんと恋仲(?)になる話。タイトルは、ときどき自分が死ぬイメージを夢想してしまう主人公の習性からきている。

昨年のDream Scenarioでも思ったが、アメリカのインディ映画は、やたらと「シュールな夢想」を映像化したがる。Dream Scenarioは、人々が見る夢にニコラス・ケイジがシュールなかたちで登場するものだが、今回は主人公の夢想を映像として見せる。蛇が出てきたり、(クレーン車の動きにあわせて)自分が浮き上がるようなイメージが出てくる。ちょっとピントがずれるかもしれないが、『エブリシング・エブリウェア〜』のような、なんでもありのイメージ合戦はその極致といえるかもしれない。「ちっとも面白くない現実」「慎ましく淡々とした日常」に対置される「シュールで怖いイメージ」という構図なわけだが、私が映画で見たいのは「日常の変容」であって、日常の超越ではない。いや、もちろん、そりゃシュールなイメージが現実に侵食することで現実が変容するんだと言われればそうかもしれないが、それなんか面白いのか?というのが正直なところだ。

と、色々言ったものの、この映画は実はそれほど、シュールなイメージが日常を侵食するわけではない。むしろ、一連のイメージ映像がなくとも、最近で言えば『枯れ葉』、あるいは『心と体と』のような、「奥手な男女の不器用な恋愛映画」として、まったくふつうに成立するだろうと思われた。こうなってくると、このシュールな夢想の設定は果たして必要だったのかと疑問になってくる。実際要らない。要らないのだが、ちょっと唸らされたのが、相手のおっちゃんは映画マニアで、映画館デートをしたり家で映画を見るのだが、劇中では一切映画の映像を見せない。こんな「映画内映画デート」の描写は初めてだ。どんな映画であれ、劇中で映画が出てくるときは、作り手の映画愛が溢れるごとく、映画内の映画が提示されるものだ。しかしこの作品では、ストイックなまでに映画の内容を見せないのだ。あえて解釈すれば、映画=イメージを一緒に見る喜びよりも、自分しか見れないイメージにとりつかれる主人公の悲しい性を強調しているのかもしれない。しかし、そうなるとやっぱり、この夢想イメージの中途半端なキャッチーさが、その徹底したストイックさと、反スペクタクルな魅力に水を差している気がしてしまう。

「奥手な男女の不器用な恋愛映画」として、特段上述の先行作品に匹敵するような部分はないし(『心と体と』の達成は今後もそうそう超えられないだろう)、撮影も美しいとはいえ、基本的には静止画的な美しさであって、映画的なそれではない。しかし、片田舎の小さなオフィスの微妙な空気感の描写はよく出来ていて、なんならうちのラボもこんなもんだと思わなくもなく、普通に楽しめた。撮影でいえば、退職した初老女性が終盤に再登場する場面の切り返しはまったくダメ。遠景で美しい映像が撮れても、こういうところが適当だと意味がない。

ただ、日本だとこれぐらいでは陰キャとは言えないかもしれない、とか思ってなんか悲しくなった。しかしホームパーティでみんなが興じるゲーム、あのノリにはまったくついていけない(笑)

 

 

 

Menu Plaisir les Troisgros @The Little Theater

監督:フレデリック・ワイズマン

 

4時間のドキュメンタリーで、具材の下拵え、牧場やワイン園、チーズ園のパート、料理のパート、それから客とシェフの対話が、ある程度の偏り(たとえばシェフと客の対話は終盤に集中している)をもたせつつ、しかし完全には構造化されないかたちで並べられている。

牛の鳴き声や卓球に興じる音など、オフの音声を多用することで、見えている以上の空間の広がりを生んでいるのが良いし、個性的な客やスノビッシュな客を捉えるカメラには遊び心があった。また、冒頭近くの、シェフと息子2人がメニューを練っている場面のショットが極めて美しい。後半ではシェフが味見をして批評する場面があって、このシーンがとても面白く、このシーンを境に、終盤はシェフがかなりクローズアップされる。それまでは見守り役っぽかったのが、自分でもフライパンを握って厨房に活気を与えるのだ。いろんな時間帯のフッテージを交錯させて使っているに違いないのだが、映画の前半と後半で厨房の雰囲気がかなり違って見えるのが面白い。このあたりは構成と編集が大いに効果を発揮しているだろう。

 

 

 

2023年にアメリカで見た映画 新作編

こちらに来たのは11月なので2ヶ月限定ということになるが、こちらに書いておく。

 

Anatomy of a Fall (落下の解剖学)

監督:ジュスティーヌ・トリエ

ザンドラ・ヒュラー

カンヌのパルムドール受賞作。フランスの雪深い山奥で夫が転落死、母親が容疑者として裁判にかけられる法廷もの。Anatomy of a fallというタイトルは、オットー・プレミンジャーの傑作、Anatomy of a murder(或る殺人)を思い出させる。

割と面白いな、と思いながら見てはいたが、とびきり良い部分があるかというと、なんか良くなりそうで突き抜けないという感じ。色々なサイドエピソードを盛り込んで弛緩しないようにしているのだが、チャカチャカしたカメラワークが気になり、イマイチ盛り上がらない。犬の扱い、子供がキーになる展開、喧嘩のシーンでの俳優の熱演、弁護士の不思議な立ち位置、色々フックはするのだが、それぞれのストーリーの提示に重きを置きすぎていて、ビジュアル面でのコンセプトの統一(や逸脱)があまり無い。同じフランス法廷ものでいえば、日本で見た『サン・トメール ある被告』を推したい。

 

★★★★★★☆☆☆☆

 

キラーズ・オブ・フラワームーン

監督:マーティン・スコセッシ

スコセッシの映画だな、と思う。

支配者の勝手な都合で人がどんどん殺されていくのを延々と見せ続ける、というのがいかにもスコセッシで、ほぼ『アイリッシュマン』である。そして「延々と見せ続ける」というのは、裏を返せば「サスペンスが撮れない」ということでもあり、それをどう取るかだろう。

アイリッシュマン』や『グッドフェローズ』のようなギャングものだと、そうしたサスペンスの欠如が気にならないぐらいに楽しめるのだが、本作に関しては何だか芸がないなと思ってしまった。家の爆破場面で『ミュンヘン』を思い出したが、『ミュンヘン』は全ての殺しの場面で、各々のサスペンスを設計していた。

映画の舞台が、FBI創設の時期とかぶっていて、かつてディカプリオが演じたJ・エドガー・フーバーの監督の元、FBI捜査官がやってくるという展開。リリー・グラッドストーンは確かに名演。

★★★★★★☆☆☆☆

 

The Holdovers ホールドオーバーズ

監督:アレクサンダー・ペイン

ポール・ジアマッティ

"holdover"というのは居残り組という意味で、寮生高校のクリスマス休暇で、実家に帰れない一部の生徒と監督を任された気難しい教師の何日間かを描くというもの。

冒頭から美しい雪景色を見せながら、慎ましい人間ドラマを全く急ぐことなく安定した語り口で綴っていくのだが、脚本が良く出来ている。ジアマッティの斜視が一つフックになっているのだが、終盤の切り返しでまさに視線が問題になる、というようなうまさがある。

それと、独身頑固おじさんの人間ドラマとして、変に恋愛の方に寄せないというのも良い。

観客の評判も非常に良く、後日。この映画について語り合う人々を何度か見かけた。こういうのが見たいんだよ、と思わせてくれる作品なんだと思う。

 

★★★★★★★☆☆☆

 

Ferrari フェラーリ

監督:マイケル・マン

アダム・ドライバー ペネロペ・クルス

コラテラル』以来の、これぞマイケル・マンというべき傑作だ。
タイトル開けのシーンがとにかく素晴らしく、日本で公開されたら大いに賞賛されるだろうと信じているが、このシーンを見て、「ああ、これは間違いない・・・」と、真冬に花巻温泉につかったときのような喜びを味わった。

ひたすら移動し続けるドライバーと、居座り続けるペネロペ・クルスの対比。ペネロペ・クルス、名演。

終盤のとあるシーンで、観客が思わず"Oh, shit!", "f◯ck!!"と叫んでいた。

 

★★★★★★★★★☆

 

Dream Scenario

監督:Kristoffer Borgli

ニコラス・ケイジ

ニコラス・ケイジの演技が評判の一作なのだが、いかにもA24らしい映画。

ニコラス・ケイジ演じるしがない中年大学教授が、なぜか世界中の人々の夢に出てくるようになり一躍人気者になるという中々面白い設定。ただ、中盤以降、SNSのバズ、若者世代のヒステリー、広告屋の介入など、どっかで見たことあるような展開をこれ見よがしにやってしまって大失速。社会風刺のつもりなのだろうが、風刺自体がステレオタイプなのが辛い。

ジュリアン・ニコルソンという俳優がニコラス・ケイジの妻役で出ていて、とても良いのだが、なんかすごい損な役回りになっていて、ここらへんの脚本の投げやりさがどうかと思った。

 

★★★★★☆☆☆☆☆

 

君たちはどう生きるか

監督:宮崎駿

積み木がどうとかいうのは本当に心底どうでも良かったが、火を起こし、風を吹かせ、追いかけっこをして、とにかく画面を活性化させることに注力したような作品になっていて、大変良かった。

ベルイマンの『第七の封印』との類似を指摘する鋭い論考を見つけた。

note.com

後出しではあるが、サギのあの粗野な感じ、高貴な人々をあげつらう感じが、ベルイマン映画における粗野な人々に似ていると思った(『魔術師』とか)。

 

★★★★★★★☆☆☆

【追記】

落下の解剖学後、なんだかんだ気になっていたジュスティーヌ・トリエ監督だが、MUBIでレトロスペクティブが組まれていたので、ちょっとずつ見てみた。こうしてみると、過去作品は結構スタイルが確立している感があり、題材も都会のインテリ女性のセクシュアリティにかかわるものが多い。その意味では、『落下の解剖学』はずいぶんこれまでの作風から外れて冒険した映画なのだなと思った。

長編フィクションデビュー作である『Age of Panic』は、オランドがサルコジを破った総選挙の前後のパリのとんでもない人混みをバックに、フランス映画らしい離婚した夫婦の関係のこじれを描いた映画で、最もわかりやすくキャッチーな作品だろう。この作品で顕著なのだが、とにかく男女が延々と言い合っている様を、笑えてくるまでしつこく撮り続けるというのがトリエ監督の一つの持ち味だと思う。その文脈でいうと、『落下の解剖学』では二階からの声が聞こえるかどうかという実験を延々と続けるシーンがあったが、どうも弾けなかった印象。

『Victoria』、『Sybil』の2作品はどちらも似たような映画で、時間軸をいじってイメージと戯れる感じがそのまま『落下の解剖学』につながっているとはいえるが、しかし見た目のスタイルにはかなり断絶を感じる。Age of Panicがある種の飛び道具的面白さで突っ走っているのを考えると、Victoriaがもっとも充実した映画と言えるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

"The Zone of Interest (関心領域)" と"Origin" @ The Little Theater

The Zone of Interest

製作年2023 UK,ポーランド etc

監督:ジョナサン・グレイザー

ザンドラ・ヒュラー

 

ホロコーストをめぐっては、昔から表象不可能性を巡って様々な議論があるが、古典的には「スリリング」で「スペクタキュラーな」『シンドラーのリスト』に対して、反スペクタクルの『ショアー』というような二項対立が議論の入口になることが多い。最近の語られ方などはよくわからないが、しかしSNSにおけるショッキングな映像の氾濫などの現代の条件を踏まえたときに、こうした議論もアップデートされる必要があるのだろう(というかされているのだろう)。ホロコーストというものをジェノサイドのなかでも特に最悪のものと考えるか、ジェノサイド一般と捉えるかは論者によって異なるかもしれないが、ジェノサイドを題材とした作品は例えばアトム・エゴヤンの『アララトの聖母』(アルメニア人虐殺)や、最近では『アイダよ、何処へ?』(スレブレニツァの虐殺)がある。ドキュメンタリーではセルゲイ・ロズニツァの『バビヤール』、アルメニア人虐殺をめぐるアニメーションとドキュメンタリーを混在させた『Aurora』などがある。

『アララト』はアルメニア人虐殺についての映画を撮るという映画、というメタ構造を設定することで、表象可能性をめぐる議論を内包した作品になっているし、『アイダよ、何処へ』では、肝心の虐殺場面はオフ画面で処理される、というように、やはり直接的な描写に対する作家の姿勢がある程度反映される結果となっている。こうした姿勢は20世紀の哲学的な議論を背景とした、より近代的で観念的なアプローチと言ってよく、これらの作品はその達成度とともに歴史に名を残すべき作品だと思う。

「しかし筆舌に尽くせぬ大惨事」の表象をめぐっては、その不可能性よりも、直接的な共感や没入感を狙った手法も最近ではまぁまぁあるように思う(若い世代の歴史的無知に対する苦肉の策という面もある)。前述した『Aurora』をはじめとして、アニメーションによる史実の再現は時々見られるし、これはBBCか何かでやっていたのだが、ホロコースト記念館ではAIを使って犠牲者の「肉声」を再現するというような手法もとられているという。ニューラルネットワークによる白黒写真の色付けについても、こうした効果がよく宣伝される。AI美空ひばりなども含めて、AIによる過去の「再現/捏造」とそれが大した議論もなく浸透しつつある現状にはギョッとさせられるが、NHKスペシャルでやっていたように、ゾンダーコマンド(ユダヤ人をガス室へ誘導したりといったことをナチの代わりにやらされていたユダヤ人)のメモ書きがAIによって再現できたりといったテクノロジーの恩恵もあるから、なかなか難しい。

ナチス強制収容所を直接的な題材とした最近の作品としては、『サウルの息子』があげられるだろう。ここでは、ゾンダーコマンドの男を主役としつつ、カメラは延々と彼の姿を画面の中心におき、最後までガス室に送られる犠牲者の姿を映さないという徹底した「反スペクタクル」を志向した映画であった。

さて、そんななかでこのZone of Interestであるが、アウシュヴィッツの監督者の一家がフェンスを介して収容所に隣接しており、そこには文字通り「楽園」が広がっている、という事態を題材としている。映画は煙突の煙や人々の叫び声によって仄めかすものの、決して壁の向こうを見せず、ユダヤ人から取り上げたと思わしき宝石やミンクのコートを身につけ、「仲睦まじく暮らす」家族を凝視的なスタイルで撮っていく。

ホロコーストを題材としつつ、直接的な描写を避けるという意味では、前述の『アララト』などの部類に入れられそうではあるが、だいぶ違う。直接的な描写を避けるどころか、それ(殺戮)とは無関係な物事が画面には提示されるので、はっきり言えば「ホロコースト」という史実を無視すれば、「出張はつらいよ」とでも言うべき凡庸な家族映画なのだ。映画内のストーリーやキャラクターによってサスペンスやドラマが生み出されておらず、凡庸きわまりない家庭内描写を見せつつ、「この凡庸な風景のすぐ隣で虐殺が起きている」という”メタな知識”が常に要求されているという意味で、現代映画というよりは現代アートだと言いたい。

画面内の出来事について言えば、最初は良いなと思ったカッティング・イン・アクションも、だんだんとワンパターンで飽きが来るし、「煙突から煙が出ている」というのもはっきりいって「紋切り型」としか言いようがない。ベッドに横たわる夫婦の会話シーンのカット処理も全然面白くない。結局のところ、物を介した人物の運動、距離を通じたサスペンスの醸成といった基本的な技術がないということが丸わかりで、いやそれも含めて「反スペクタクル」なのかもしれぬし、スペクタクルに溢れたSNS社会であえてそれをやることに意味があるのかもしれないのだが、それで2時間以上観客を張り付けて得られるものは何なのか、と思った。

 

"Origin"

製作 2023 アメリ

監督:Ava DeVarnay

ピューリッツァー賞作家であるイザベル・ウィルカーソンの2020年のCasteという本(調べたら『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』として翻訳されていた)を題材に、イザベルがそれを書き上げていくに至る過程を映画化したというもの。

劇中でもかなり詳しく語られるように、「人種差別」という概念ではなく、「カースト」という概念で考えると、インドのカースト、ナチのホロコースト、そしてアメリカの奴隷制と現在に至る黒人差別が説明できる、という発想を持ったイザベルが、ドイツやインドを訪れて取材していく。エンドクレジットで驚いたのだが、何とヴェラ・ファーミガが編集者役で出ており、また『デーモンラヴァー』のコニー・ニールセンがドイツのインテリ役で出ている。

さて、何というか最近出た本の内容+メイキング+人物伝という盛りだくさんな内容になっていて、彼女が読む本がいちいち映像化され、またホロコーストやインドにおける差別についても映像化され、というように、なんか世界仰天ニュースでも見ているような感じはする。映画として見どころがあるかというと疑問で、しかし確かにCasteは読んでみたいような気はした(ナチスドイツがJim Crowを参考にしたという話もあり。)から、作り手の狙いは奏功しているのかもしれない。。

 

ということで、頑なに表象しない作品と何でも表象しちゃう作品だったが、どちらもイマイチだった笑

ちなみに前者は満席だったが、みな疲労困憊。後者はそれほど入っていないが上映後は拍手喝采