お目が高いって言われたい!〜アメリカ在住MD PhDの映画日記〜

映画を見る合間に膠原病の研究をしています

Laugh, clown, laugh @ Dryden Theater

1928年製作

監督:ハーバート・ブレナン

出演:ロン・チェイニーロレッタ・ヤング

 

日本では未公開作なのか、邦題が見当たらなかったが、これは面白いサイレント映画だった。youtubeにもあった。

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一応IMDBとかにのってるシナリオとしては、イタリアで芸人として生計を立ててきた男(ロン・チェイニー)が、すぐに泣き出してしまう症状にかられ、一方にはなぜか笑いが止まらない男がおり、二人で補い合う、みたいな感じで描かれていて、嘘ではないんだが、その話自体はあってないようなものだ。あるいは、途中フィルムが残っていない箇所があるのだが、そこでもう少しその様子が描かれていたのかもしれない。改めてストーリーを簡単に辿り直せば、ロン・チェイニー演じるティトと、シモンの二人は旅芸人をやっていて、旅先で捨てられた女の子を拾い、シモネッタと名付ける。シモネッタは立派に育ったのだが、ティトは知らず知らず彼女に恋してしまう。その禁断の恋心に苛まれた挙句、抑うつ的になってしまう。抑うつ症状の治療のために足を運ぶクリニックで、不適切な笑いが止まらない男と出会う。というところで、上の紹介に続く。このように、ロン・チェイニーの絶望には理由があるが、後者の男の症状はまったくの荒唐無稽な設定であるし、物語上もまっっっったく機能していない。

最終的にこの二人とシモネッタが三角関係となるというよくある筋書きなのだが、ところどころ展開が意味不明だったり突拍子もなかったりして、「はぁ?w」となるのだが、一方でそうした様子を捉えるカメラ、あるいはショット構成はかなり成熟したそれなので、そのギャップが面白い。

せっかくシモネッタが舞台で綱渡りをしているのに、舞台袖からその様子を、見ない! 
逆もしかりで、ティトの舞台上演中、シモネッタが舞台袖から、見ない!
いや見てやれよ、と突っ込まずにはいられない。にもかかわらず、舞台袖と舞台をディープフォーカスの縦構図で結ぶショットは実に決まっている。

あるいは、終盤のティトとシモンの高低差をつけた切り返しは、ほとんどルノワールを思わせるような、運命的な雰囲気に溢れていて、性急でいい加減な筋書きであっても、感動が薄れない。

 

ところで、個人的に気に入ったシーンとして、下の写真の場面だ。ここで、上述したように絶望しきったロン・チェイニーが医者に介抱されているのだが、この同じ場面で彼が大きな片手で顔を覆い、見かねた医者が両肩に手を置くショットがある。この顔に手を当てたロン・チェイニーが、苦悩そのもの!という感じで、ベルイマンのクローズアップのような迫力があった。ベルイマンもそうだが、苦悩そのものみたいな重苦しいクローズアップって、大画面で見ると妙に盛り上がる。

ということで、ルノワールベルイマンみたいなサイレントの名作でした。

 

 

 

 

 

キートンの警官騒動 Cops / キートンのセブンチャンス Seven Chances @ Dryden Theater

さて、ジョージ・イーストマンの生家が博物館となっているEastman Houseには、Dryden Theaterが併設されており、週5日にわたって所蔵フィルムによる上映が行われている。

今週から火曜日はサイレント・チュースデーということで、サイレント映画の上映が行われる。ちいなみにシアターのキュレーターによるピアノ生伴奏つき。今後はキートンのほか、ドライヤーの上映も予定されている。

さて、本日のキートン2本立てだが、5-60人は入っていたような気がする。ここはニューヨーク州とはいえど、人口20万人にすぎぬ田舎町。もちろん毎度これだけ入るというわけではないのだが、それでもこの熱気には驚かされる。ご高齢のカップルが多いが、若い衆もちらほら来ていた。

Copsはマジで何の肩書きも明かされぬ青年キートンが、ただただ物事の連鎖に巻き込まれて、警官達に追いかけられるという短編映画。梯子を使ったシーソーなどどうやって撮ってるのかわからぬアクロバティックなアクションも凄いし、全体のエキストラの量に圧倒される。警官達が建物に次々と入っていく画なんて、本当に実写なのか?と思うような、サザエさんのエンディングのように建物が揺れてるんじゃないかと錯覚するような、とにかく凄いインパクトだった。

Seven Chanceは(舞台が元になっていることもあり)いくらか物語があって、19時までに花嫁を見つけるというタイムリミット・サスペンスをベースとしているから、前半はわりとスローペースなのだが、花嫁姿の女性達が大集結してからの追走劇は、Copsをさらに超えるハチャメチャぶりで、こんなのよく撮ったなと思う。とにかく凄い。前半と後半のギャップが尋常ではない。

ただ、Seven Chanceには一個、とんでもない人種差別描写がある。

 

Good One @ The Little Theater

監督:インディア・ドナルドソン

出演:リリー・コリアス

先日シアターで流れた本作の予告編で、全然英語が聞き取れなかったので、open caption版の回を選んで見た(The Little Theaterではほぼ大体の上映作品で、週2回ほどopen caption上映がある。『フェラーリ』もこれなしではほぼわからなかったw)
予告編では、楽しいハイキングが途中から不穏な空気になっていき、というような感じの紹介になっていて、確かにそうだが、ぶっちゃけ最初から不穏である。

大学入学を控えたサミー(リリー・コリアス)が、離婚した父と、もう一人、ディランという男の子(関係性は明かされない)と、これまた離婚した彼の父と一緒にハイキングに出かける予定だったのが、直前にディランがごねて、ディランの父(マット)だけを連れた3人で行くことになる。サミーの父とマット、二人の中年男性がやや異なるタイプではあるが、二人のマイクロアグレッションを観客はひたすら目撃させられることになる。ゆったりとしたリズムのなか、あまり大きな展開も起きず、マイクロアグレッションが淡々と蓄積されていくという点では、エリザ・ヒットマンの『16歳の瞳に映る世界』などにも通じる志の映画だろう。

もう少し画面にインパクトがあると良いんだけどなぁと思いながら見ていたが、あくまで地味さを貫く方針かもしれない。

たまたま遭遇した若者3人組との会話シーンでは、サミーの視線と男性陣の視線が、交わってるのかいないのか、要するに人物達がどこを見てるのかよくわからないように撮られているのが面白い。このシーンも含めて、切り返しがほぼ内側で、主要キャラクターの3人が同一画面に入ることの方が珍しいのだが、唯一、サミーとマットの夜の会話のシーンだけが外側の切り返しで撮られており、ここでマットがとんでもない下衆発言をすることになる。(それにしても、俺は生まれ変わったら哲学者になっていたと思う、という自意識と、現実のうだつの上がらぬ人生のルサンチマンを10代女性にぶつけてしまう男の惨めさったらない。)

前述の下衆発言のあとのシーンで、サミーが下着姿で川に入るシーンがあり、陽光の差し込みも含めて、ここは意図的にセクシャリティを漂わせるショットになっているのだが、縦構図の奥から父が娘に向ける視線、画面外に想像されるマットの視線(実際は寝てるのだがw)が交錯し、観客はこの画面をどう見るべきか悩むことになるだろう。

 

地味だなぁ、もうちょい、うーん、みたいな気持ちと(冒頭で、マットの荷物が玄関口の階段を転げ落ちるような、ああいう遊び心がもっとあってもいい)、上述のような実に計算された演出への感嘆で揺れるが、新作を見てみたい監督かもしれない。ただ、アメリカ・インディ系の、空ショットと会話ショットだけで成立させる、この地味すぎる感じ(ケリー・ライカート的な?)にはそろそろ既視感が強まってきたような。

 

★★★★★★★☆☆☆

 

 

 

 

The Rest is Silence @ Dryden Theater

監督:ヘルムート・コイトナー

 

1959年の西ドイツの作品。35mmフィルムでの上映。

タイトル自体がハムレットから引用されており、お話も基本的にハムレットを下敷きにしたものになっている。アメリカから西ドイツに戻ってきた若き哲学教授が、戦時中に事故死した父親の真相を探るという話で、ハムレットを下敷きにしているとくれば「真相」も自ずとわかるわけだが、黒澤の『悪い奴ほどよく眠る』と同様に、ハムレットのストーリーを借りてくることで、戦後の経済成長を経験している只中の「現在」に、誰も振り返りたくない「過去」が侵食してくる構造をとっている。ただし、黒澤版が、実によく練られた脚色を施されていたのに対して、本作は起承転結の順番についてはかなりの程度もとのストーリーラインに忠実だと感じた。そのせいか、主人公の男を精神疾患ということにしてスコットランドに送ってしまうという工作のパートなどが、やや野暮ったく感じてしまったし、自作のモダンバレエを見せて義父と母の反応を伺うという場面も、芝居をバレエに代えただけだが、そもそもこの筋自体が、意図と結果が一義的でまったく映画的じゃない。その意味で、このシーンを冒頭に持ってきてウェディングケーキで処理した黒澤版の脚色の見事さが逆に際立つ。

 

さて、ハムレットにおけるオフィーリアにあたるフィーを演じるイングリッドアンドレは実に目力のある人で、最初に登場する場面 ー 主人公のジョンが迎えの車に乗らずに荷物だけ預けて去っていったあと、運転手が荷物を入れてトランクを閉めると、後部座席からその様子を見ているフィーの顔、というか目が映りこむ ー から非常に印象的だ。彼女の「じっと見る」という立ち位置はその後も継続され、翌朝、窓からジョンの方をじっと見る場面がとても面白いし、あるいはジョンが父の日記を手に入れてそれをバーで読み耽っているあいだ、彼女が店内でそれを静かに見ていたことがわかる(彼女が見るショットは撮られていないが)。こうしたじっと観察する立ち位置の面白さが、いささかステレオタイプなノイローゼ的顛末によって失われてしまうのが勿体無い。いっそシェイクスピアのことなど忘れて、彼女を「見る者」として徹底的に活かす方法もあったように思う。

ジョンとフィーのやりとりはいずれも良く撮れている。二人が隠れ家で結ばれる夜の場面では、二人が接吻をしたのち、ジョンがフィーの膝下に体を寄せると、二人はさっそく別々の画面で切り取られ、あっさり分断されてしまう。

また、ナチ時代のそれを思わせる労働者の彫刻が屋敷の玄関口にどーんと立っている装置が面白い。映画ではこの彫刻に一切言及がないのだが、当時のドイツ国民にはその意味がすぐに了解されたであろう。

ちなみにジョンが父の日記を探し当てる場面で、突然B級ミステリのような謎解きがあって、あまりのアンバランスさに笑ってしまったが、これは茶目っ気として肯定したい。

 

 

七人の侍 Seven Samurai 4Kリマスター @ The Little Theater

監督:黒澤明

三船敏郎志村喬加東大介宮口精二津島恵子

 

こういうのはいつかスクリーンでやるだろうからと、家では見ずに置いておいた。ちなみに他にセーブしているものとして、アラビアのロレンススパルタカスゴッドファーザー、エイリアン、アンゲロプロスのいくつかがある。

黒澤は、午前十時の映画祭で見た『天国と地獄』、『のら犬』がとても気に入っている。海外の映画人に評判の良い『生きる』はさすがに後半が長すぎると思うが、前半はすごく良かった。嫌いなのが『用心棒』で、三船に翻弄される庶民を見下したような撮り方が耐えられなかった。『七人の侍』にしても、あまりにオーバーな庶民のリアクション、いつまでもメソメソしているその芝居の付け方に辟易とするのだが、しかし三船自体の出自が問題になることで、単なる駒ではなく、ある種の構造を提示するところに至っていると言って良いだろう。そのため、終盤はそれほど嫌な感じがしなかった。それでも雨のなかいつまでも泣き続ける津島恵子の役付けはどうなのか。人々が去って、志村、木村功、津島の三角形を捉えた構図もわざとらしくて嫌だ。三船にしても、いつまでこんな猿芝居をするんだとイライラしながら見ていた(観客は大ウケだったが)。

と、ずーっとイライラしながら見ていたのだが、上述したわざとらしく大袈裟な演出に比して、人が死ぬときの徹底した厳しさはどうか。それまで散々無駄なクローズアップを撮っていたにもかかわらず、木村(勝四郎)の妻が勝四郎に遭遇した途端きびすを返して火事の中に消えていく場面では、決してアップを撮らない。宮口精二、三船、いずれも何のタメもなくあっさりと死んでいき、最期の言葉さえない。この厳しさには恐れ入る。1954年に撮られた戦争映画として記憶したい。

米をねだる村の子供達は、チョコレートをほしがる日本の子供達だ。

 

 

 

Skincare @ The Little Theater

監督:オースティン・ピータース

撮影:クリストファー・リプリー

出演:エリザベス・バンクス、ルイス・プルマン、ルイス・ジェラルド・メンデス

何も知らずに見に行ったので、てっきり美容業界の闇を暴くスリラーなのかと思いきや、LAの美容サロンを舞台にした実にしょーもない小競り合い映画であったが、これが大変面白かった。エリザベス・バンクス演じるキャリア絶好調の美容サロンのオーナーである主人公の周りに、向かいに店を構える同業種の男、自称ライフ・コーチング専門家の男、用心棒的な佇まいの車屋のおっちゃん、テレビ出演とバーターに関係を持とうとするキャスターなど、実にいかがわしい男達が次々現れる。彼らの顔がいちいち面白く、キャスティングの勝利ではあるが、実は一人一人をカメラに収めるその方法が実に良い。ちょっとした照明の工夫、窓枠を使ったフレーミング、あるいは拳銃を購入するシーンでは仰角ショットを取り入れるなどなかなか芸が細かい。あるいは音の演出にもそれなりに工夫があり、エリザべス・バンクスが外からFワードを叫ぶ場面では、微妙に声が聞こえるようになっていたりする。キャスターの男がテレビ出演をえさに関係を持とうとして普通に一蹴される場面でも、リバースショットで実にコミカルな画を見せてくれる。

また、エリザベス・バンクスが、美容業界の白人のブロンド髪の神経症気味の女というよくあるキャラクターなのだが、彼女がそれほどアホになりすぎず、神経衰弱でおかしくもならず、まぁまぁ頭を働かせつつ頑張りつつも、やっぱりダメ、という絶妙な塩梅におさまっている。彼女を心理的に翻弄するのではなく、ショットによって色付けしていると言えば良いか。例えば店の鏡の前で拳銃を構えるショットでは、カッティング・イン・アクションでちょっと緊張感を上げた途端、彼女が拳銃よりも顔のシミを気にし出すというおふざけぶり。その後のシーンで実際に自宅に侵入者が現れた場面では、彼女の姿が鏡に二重に映し出され、これもスリラーでありながら、前の演出も効いて、ちょっと笑える構図なのだ。

バンクスの店の向かいに同業の店がオープンして、顧客を次々取られていくというのが物語の起点になっているが、この(古典的/映画的な)位置関係をもうちょっと面白く見せられればなお良かったと思う。しかし上述のような、非常にきっちりした仕立てのなかで、おふざけもあり、かつあまり盛り上げすぎない慎ましさもあり、これは十分傑作と言って良いと思う。

それにしても、LAの真昼にシャツを羽織った男が現れるとそれだけで胡散臭さ満点になるのは、アルトマンのせいなのか知らないが、こういうのは東海岸では絶対成立しないだろう。

 

 

★★★★★★★★☆☆(ちょっとおまけ)

 

 

 

Ghostlight @ The Little Theater

監督:ケリー・オサリヴァン アレックス・トンプソン

出演:Keith Kuperer, Katherine Mallen Kupferer, Dolly De Leon

 

演劇を通じた家族の再生の物語、と一言でまとめてしまうのもあれだが、まぁそういう映画である。Katherine Mallen Kupferer演じる不良少女が、素行が悪くFワード連発だが、豊かな感性があり、というのはアメリカ映画お得意のキャラクタリゼーションだろう。ご都合主義的に良い子になっちゃうのもアメリカ映画らしいといえばらしい。

工事現場での取っ組み合い→Dolly De Leonがそれを目撃して、声をかけてくる→入団という流れや、インティマシー・コーディネーターが必要だと主張する劇団員とDolly De Leonの喧嘩→団員が脱退→主人公が代わりに抜擢→インティマシー・コーディネーターの代わりとして二人で距離を縮める→勘違いした娘が入ってくる、という流れなどは脚本の構成が練られていて快活に進むが、一方で家族のトラウマをめぐるドラマについてはやや中途半端な出来になっている。

演劇による喪失の昇華、という物語が大きすぎて、現実のなかの複雑なあれやこれやが捨象されているように思う。

Dolly De Leonは『逆転のトライアングル』で掃除婦を演じた人。素晴らしい存在感。登場シーンの、シャツとジーンズにスニーカー姿がかっちょいい。ああいう年のとりかたをしたい。

 

★★★★★☆☆☆☆☆